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2011-06-09

第1話 「山口県の部落解放の先駆者」赤松照憧(あかまつ しょうどう)~セツルメント活動を部落問題に~


更新日:2011-06-29

日本の社会福祉の原点 セツルメント活動を部落問題に適用

19世紀から20世紀初めは、日本社会事業のあけぼのといってよい。社会事業というのは、産業の発展にともなって増えはじめた労働者など社会的弱者に、人間らしい生活を保障しようとするもので、現在の社会保障・社会福祉の出発である。

当時、社会事業の一角にセツルメント活動というものがあった。賀川豊彦の主導する神戸の活動は全国的にも有名になったので、ご存知の方も多いかもしれない。

セツルメント活動は、知識人が貧しい人びとの居住地域に入り込み生活をともにし、諸種の社会事業の実践を通じて自立の精神を教え、貧困と差別にうちひしがれた人びとの社会的自立を援助しようとするものであった。

さて、徳山の町に浄土真宗の徳応寺というお寺がある。明治維新の頃、この寺の住職・赤松連城は、浄土真宗の近代化に大活躍した全国的にも有名な僧侶である。その赤松連城の娘・安子の婿養子となり、お寺を継いだのが赤松照幢だ。

この赤松照幢はセツルメント活動の方法を部落問題に適用し、山口県の部落解放運動の先駆けの一人となった。赤松照幢の弟は与謝野鉄幹で、彼は明星派の歌人として一世を風靡。彼の妻が与謝野晶子である。

照幢と安子夫妻は結婚生活を始めると、すぐに二人で一心不乱に社会事業に取り組む。
1886年には慈善団体の山口県積善会を設立し、翌年には私立白蓮女学校を設立(のちに徳山女学校)、1899年には徳応寺内に育児所を設け児童保護事業をおこなった。

当時の都濃郡長(旧鹿野町)の田中一民は、安子の第一印象を「まるで鬼婆だ」と感じたという。一心不乱の社会事業への献身が彼女を「鬼婆」のように感じさせたのだろう。

長年にわたって各種の社会事業に取り組んだのちに、赤松照幢と安子夫妻はいまだ手をつけないままにしてきた事業があることに気づく。即ち、前近代社会からつづく、部落差別に苦しむ人びとの問題である。

2人は1920年(大正9)12月末、徳応寺住職の座を長男に引き継ぎ、他の子どもたちを引き連れ、徳山の町中にある被差別部落へ居住を移した。翌年正月から、赤松照幢一家の部落内での生活が始まる。ちなみに、息子の赤松克麿は、のちに社会主義者として全国的にも名を馳せ、「卑怯者去らば去れ 我等は赤旗守る」のフレーズで有名な「赤旗の歌」の作詞者である。

当時、克麿は東京大学で学んでいたが、彼が徴兵検査のため帰郷すると尾行の刑事もついてきた。赤松照幢は自身の「日記」に、部落青年や克麿とともに「警官某」も座敷にあげてともに食事をしたことなどが記されている。

娘の常子は初め同居していたが、やがて神戸の賀川豊彦の活動に参加しようと家を出る。この常子が後に「繊維女工・労働運動の母」と呼ばれるゼンセン同盟委員長・参議院議員の赤松常子である。

部落改善運動を展開

隣保館・託児施設を運営

彼の居宅は会堂とよばれ、セツルメント活動の拠点となった。新聞・雑誌・図書をおき部落の人びとが閲覧できるようにし、青年団や処女会の集会や児童の学習の場としても使用された。

赤松照幢は部落内を散歩するのが好きで、人びとと言葉をかわし、生活の相談にものった。お風呂も部落の人びとの家でもらい、また、食べ物や花をもらうことが多かった。 部落青年の入営・退営のお祝い、結婚式、新築祝いなどの祝宴にもよばれた。照幢の自宅には近所の子どもたちがいつも遊びにきた。

部落解放の取り組みとしては、当時「部落改善」をめざそうという考え方が主流であった。そのため、住宅改善組合を結成し、県に対して交渉し、徳山練炭所への就職斡旋、運送業者組合の設立を指導している。また町会議員選挙に際しても、部落内から議員を選出することに力を入れている。

これらの活動は、徳山に近い久米村の河野諦円の協力もえている。河野諦円については次回に取り上げるが、彼も早くから改善運動に取り組んだ山口県の部落解放運動のさきがけの一人である。

部落の人間として生涯を

赤松照幢の活動は、しかし、長くは続かなかった。居住をはじめてから八ヶ月のちの、一九二一年(大正一〇)八月二四日、照幢は部落の児童たちをつれて虹ガ浜(光市)に海水浴に行った。

娘の常子もそのころ帰宅していて、一緒について行った。ところが水浴中に照幢は心臓麻痺をおこして死んでしまうのである。

部落の人びとと徳応寺の門徒の者が大勢あつまり、照幢の遺体を列車で徳山駅まで運んだが、列車からおりて道が寺へ行く道と、部落へ行く道の分岐点のところまできて、争いがおこった。

門徒の者たちはご院主さんだから寺へと主張し、部落の人びとは今朝まで自分たちの仲間だったんだから「当然、部落へ」と主張して、両方とも譲ろうとしない。

結局、常子の意見を聞こうということになった。常子は考えたすえ、次のように答えた。
「父は部落の人として生涯を終わりたかったのだと思います。ですから部落に連れて帰ってください。」

わっと、部落の人たちの側から歓声があがったという。

この話には後日談がある。照幢の死去を報じた『徳山新聞』の記事中に、部落について差別的表現があるとして、照幢の薫陶をうけた部落の人びとが強く抗議した。その対応がさらに差別的であったので徳山新聞社主はさらに抗議と非難をあびる。

部落の人びとは徳山警察署長あてに差別撤廃のための懇願書を提出しているが、その末尾は「吾等の目的とすべき処は人権主張の為なれば、主義の徹底する迄は止めず捨てず進行すべく、一致団結以って懇願するものなり」と結ばれている。これぞ山口県における水平運動の先駆であろう。

 

文:布引敏雄(大阪観光大学名誉教授)

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