「花燃ゆ」には描かれない部落史①~吉田松陰と烈婦登波~


「花燃ゆ」には、描かれない吉田松陰と被差別部落民との出来事がいくつもある。その一つに、松陰が松下村塾を一ヶ月間休み完成させた烈婦登波の『討賊始末』がある。被差別民(宮番)である登波の顕彰に尽力し、最後には平民の身分に加えることにも成功した。江戸時代における部落解放の出発ともいえる出来事を紹介する。

烈婦登波とは
「烈婦」とは、信念を貫き、変えない気性の強い女性という意味。「登波」とは、被差別民である女性の名前。

事件の概要
文政四年(一八二一)一〇月夜半、登波二三歳の時。

登波の実家「滝部八幡宮」「(現下関市豊北町)境内において、夫の妹の離婚話後、妹の夫であった枯木竜之進が、登波の父・弟・義妹を殺害し、登波の夫にも瀕死の重傷を追わせて、逃亡した。この時登波は、別の場所にいたのでその難を逃れた。

登波が単身仇討ち
登波は四年間、夫の看護をし、傷が癒えたところで、夫に代わって父・弟・義妹の仇・枯木竜之進を討つことを藩に申し出た。
その後、一二年間、日本全国六〇余州を探し、ついに豊前(大分・福岡の県境)の寺に変名しているところを突き止めた。

登波は帰藩して藩府に仇討ちを願い出たが、身分差別により、その願いは許されず、役人が逮捕することになった。藩は役人に命じて、竜之進を捉えさせたが、竜之進は隙をみて逃亡し、自殺した。

その遺体は滝部村において、さらし首にされた。竜之進の首に向いか小刀をかざし「思い知ったか竜之進!」と叫び、長く立ち尽くす登波の姿を見て、村人たちは登波が見事に「仇を討った」ことを認めた。この時、登波は四三歳、事件後二〇年目にして、ついに仇討ちを成し遂げた。

藩主毛利敬親も感激
安政三年(一八五六)登波五八歳の時。
先大津代官は「日本仇討ち史上最も長い歳月をかけ、もっとも長い距離を探索した」ことで、登波のおこないを、萩藩主の毛利敬親に伝えた。藩主・毛利敬親は感激し、登波を表彰し、終身、米が送られることになった。


松陰に顕彰文を依頼

吉田松陰が登波と関わったのは、安政四年(一八五七)、登波五九歳のときだった。当時、先大津代官に任命された周布政之助が、この登波の快挙を後生に伝えたいと、顕彰碑建立を計画し、その碑文を松陰に依頼した。

松陰は、登波を松下村塾に呼んで、周布政之助と共にその事情を聞いた。登波は、昨日の事のように詳しく涙ながらに語った。松陰は登波の考義に感激し、一ヶ月間、松下村塾を休み、「烈婦登波の碑」の碑文の試作に専念して書き上げた。

さらに、松陰は碑文では言い尽くせなかった内容を、詳しく「討賊始末」にまとめ、後世の人々のために書き残した。その後、登波が津和野へ行く途中、松陰は杉家に立ち寄らせ、面談し、一泊させた。


宮番から平民へ

松陰は碑文に、「宮番の職を免じて、良民(平民)に歯する(ならぶ)ことを得しむべし。審議慎重、月日可すを得たり」と試作したが、当時は前例がなく実現は困難を極めた。

その後、周布政之助から登波を宮番の身分から解放する願いが出されるなど、あらゆる手段を尽くして、ついに安政五年(一八五八)、平民への実現を果たした。江戸時代におけるいわば、「部落解放」の出発点ともいうべき出来事である。


吉田松陰の人間観

松陰は、身分差別が厳しかった当時、賤民身分である登波を自宅に招き、宿泊させ、面談している。そして、塾生に対しても登波を顕彰し、強い感銘を与えた。松陰の身分を問わない精神は、松下村塾の門下生へのその後の思想や行動にも大きな影響を与えた。

松陰の死後も、塾生は師の教えを大切にした。文久元年(一八六一)久坂玄瑞主宰の「一燈銭申合」の活動内容には、まだ実現されていない「登波の顕彰碑」のことが挙げられている。

また、高杉晋作の奇兵隊結成に対し、吉田稔麿は被差別部落民の兵士登用(「屠勇取立」)をおこなったが、これらはまさに封建的身分制度の否定であった(前号参照)。松陰のすぐれた人間観は塾生に受け継がれ、新しい夜明けを導いた。


「烈婦登波」碑建立
松陰は、登波の建碑のことを終生気にしていたが、ついに自らこれを目にすることは出来なかった。
そして、松陰没約六〇年後、一九一七年(大正六年)、登波ゆかりの滝部村の八幡宮境内に、念願であった登波の顕彰碑が建てられた。そこには、しっかりと松陰の碑文が刻されている。