「花燃ゆ」には描かれない部落史②~長州藩「維新団」と明治維新~


維新団とは
「維新団」とは、幕末の長州藩で多数結成された諸隊のうち、被差別部落民のみで構成された部隊である。
岩国市周東町の被差別部落を中心に総数145名が結集。
1番小隊から4番小隊あり、通化寺に駐屯していた遊撃軍に付属した。
明治維新革命前、当時各地で数多くつくられた軍隊の中で、「維新」を名乗った部隊は、だた一つである。


「屠勇取立令」

長州藩では吉田松陰の弟子である吉田稔麿の建策を受け容れて、1863年(文久3年)、
被差別部落民の「屠勇取立」(兵士取立)をおこなった。

兵士に登用された者には、一刀を差し胴服を着用することが許され、「穢多の名目をさし除く」ことが約束された。
これにより被差別部落民の兵士登用の道が開かれると、来るべき幕府との戦いに備え、1865年には「維新団」、
「一新組」「山代茶筅中」などの部隊が結成。
これら被差別部落民部隊を総称して「屠勇隊」とよぶ。


「維新団」の活躍

維新団は小銃隊として第2次幕長戦争(四境戦争)に参戦。
1866年(慶応2年)6月、芸州口小瀬川(和木町)に出陣した維新団は遊撃隊とともに戦闘に参加した。
野戦では二人一組となり、約10㍍間隔で散開し、敵から身を隠しながら敏速に動き回り、幕府軍に激しい銃撃を浴びせた。

また、軍監の戦闘報知としても活躍し、「維新団の動き驚眼事に御座候」と勇敢な闘いが称賛された。

軍監・河瀬安四郎の報告には、出陣前には差別的言辞を浴びせられていたが、勝利ののちには丁寧な取り扱いを受けるになったとあり、維新団の命をかけ闘いとった解放的状況を伝えている。

身分解放より土地
戦線より凱旋した維新団兵士は、褒賞として士分格か山林か、どちらかを取るように提案され、
名よりも実という考えから山林5㌶を取った。

大正年間、この山林は被差別部落の青少年によって、祖父の解放への苦闘を想起し継承する目的で開墾され、
その利益は部落改善運動の資金にあてられた。


西光万吉からの依頼

維新団の活躍から半世紀後の1922年、全国水平社が創立。その中心メンバーであり、
水平社宣言の起草者でもある西光万吉が、全国水平社の機関紙『水平新聞』創刊号に「屠勇 維新団」と題して、
次のような檄文を寄せている。

「長州藩は吉田稔麿の建議を容れ、彼を屠勇取立引受とした。詳しいことは小生は知らない。
兎に角、小生は山口県水平社で此の維新団の詳しいことを調べて欲しいと思っている。」

「なんといっても長州藩は明治革命の主役者だ。その一部に維新団があったことはおもしろい。
おそらく長い間、虐げられた防長の祖父達は、他の兵士以上に敢然として働いたであろう。」

「嗚呼、屠勇、たとえ無意識であったにせよ、如何に日頃の鬱憤が晴れたであろう。如何に前途が明るくなったであろう。
賤民の集団に名づけられた維新団の名は、遂に明治革命と共に長く我々を鼓舞するであろう。」

「維新団の子孫よ!ハッキリと意識して大正水平期を画さねばならぬ。」

◆第2次幕長戦争と「維新団」
1859(安政6)年       吉田松陰が刑死する。
1863(文久3)年 5月    下関事件(米仏欄艦船を砲撃)
1863(文久3)年6月    奇兵隊が結成
1863(文久3)年10月  遊撃隊が編成(本陣を防府)
1864(元治元)年7月   禁門の変(蛤御門の変)
1864年      8月   馬関戦争 一新組(45名)結成
1864年      9月   第1次幕長戦争 遊撃隊再建
1864年      12月  功山寺挙兵
1865(慶応元)年 4月  遊撃軍が高森村(岩国)へ移駐
1865年      5月  遊撃軍の本陣を通化寺へ
1866(慶応2)年 1月   薩長同盟
1866年      5月  維新団(145名)結成
1866年      6月 第2次幕長戦争(~9月)
1868(明治元)年   戊辰戦争

◆芸州口の戦いに臨んだ屠勇隊


「維新団」(戦闘部隊)〈岩国〉
・遊撃軍の先陣(ライフル部隊)としての役割
・軍監の戦闘報知「維新団の動き驚眼事に御座候」

「一新組」(戦闘部隊)〈防府〉

・地雷を敷設する特別隊として編成
・第2次幕長戦争では遊撃軍の御楯隊に付属

「山代茶筅中」(補給部隊)〈岩国〉

・武器・弾薬・食糧の調達および前線への補給