第8話 歌人「松木 淳」(前編)

第8話 歌人「松木 淳」

貧しい生家

一九二三年に山口県水平社が結成されると同時に、山口県内の各地にたくさんの水平社が組織された。その一つに川越水平社がある(現在は岩国市)。その水平社に十八歳の松木淳(筆名)も参加していた。

松木の家は農家ではあるが、猫の額ほどの畑しかもたず、他家の農業や林業の手伝い稼ぎが主な収入であった。松木淳も小さなころから子守や留守番などの稼ぎにおわれ、ろくに学校にも通えなかった。その上、学校では差別が渦巻いていたから、淳は三年生ころまでしか学校へは行かず、結局、小学校の卒業者名簿にも松木淳の名前はのることがなかった。

さすらいの旅と短歌

松木淳は十四歳になると、家を離れあちこちの職場を転々とする生活にはいった。荷馬車の馬丁、砥石売りを兼ねた包丁研ぎ、農繁期の田植えや稲刈りの手伝い等々、部落差別のせいでどこの会社も正規の従業員としては雇ってくれず、いつも臨時雇いであった。

さらに松木に重くのしかかったのは肺病である。微熱を身体の奥に感じながらの漂泊であった。こんな松木淳だったが、故郷の村で水平社が結成されたと聞いて勇んで帰郷する。だが、現実はきびしかった。川越水平社が差別発言の糾弾をおこなうと、官憲はこれを「恐喝」だとして弾圧する。松木淳は年少のため逮捕をまぬがれたが、再び彼は故郷を離れさすらいの生活にもどる。

そんな生活のなかで松木は短歌を詠むことをはじめた。小学校にさえ行かなかった松木がすぐれた短歌を詠んだというのは、彼の努力のすさまじさを物語る。松木の短歌には、貧しさと苦悩の毎日を感性ゆたかに詠ったすぐれた作品が多い。

世路のひかり

一九三○年(昭和五)、松木淳は臨時雇いとして小野田の姫井製陶所で働くようになった。硫酸壜をつくる小さな工場だが、そこの社主は姫井伊介といい社会事業、とくに部落問題に熱心な人物として有名だった。

姫井伊介はその製陶所の中に隣保館「労道社」を置き、いろんな社会事業を実践していたが、その中心は労道社保育園であった。松木淳は姫井製陶所で働くうちに保育園の保母・杉野雪路(仮名)と知りあう。いつしか松木淳は雪路に好意を抱くようになる。

【第一〇話につづく】