第7話 姫井伊介(後編) 隣保館「労道社」を設立、隣保事業を展開

第7話 姫井伊介(後編)

【前編】県議会で部落問題の解決を訴える姫井伊介。県の職員となり、山口市の部落に住みセツルメント活動を展開。水平社運動にも共感を持つが、山口県当局は姫井に融和運動団体の山口県一心会の設立を託す。

隣保館労道社の設立

姫井伊介は社会事業を彼独自に進めるために、彼の経営する姫井製陶所のなかに隣保館「労道社」を組織した。姫井は労道社の仕事を隣保館事業と称し、地域に密着して各種の社会事業を総合的に実施した。

そこでは保育事業を中心として労働者保護の各種社会事業に取り組んだが、もちろん部落問題解決のための事業にも深く関わった。姫井伊介が社主を務める姫井製陶所は、イングランドのロバート・オーウェンをまねて空想的社会主義かと見まちがう経営をおこなった。

そこでは朝鮮人労働者や部落の人びとを採用することも多く、また、社会問題に関心を抱く青年たちが多く集まった。しかし、年号が昭和と変わって経済恐慌が押し寄せると、小野田地方の製陶所群でも労働争議が勃発した。

労働争議を指導したのは、宇部合同労組の委員長で、かつ全国水平社の中央委員を務める田村定一。これに対して経営者側の代表は姫井伊介であった。

姫井の理想主義も恐慌には無力で、この争議の最中に姫井は労働者から下駄で殴られている。部落問題においては、姫井は意識の問題だけでなく、部落の人びとの生活支援が重要な課題であることを思い知らされたことであろう。

姫井の融和思想

姫井の融和思想についてその核心を紹介しておこう。一九二七年(昭和二)十二月八日の山口県議会で姫井は次のように言っている。「本問題ニ第三者ハアリマセヌ、其ノ自己ノ罪ヲ知ルコトハ差別者自ラヲ救ヒ同時ニ被差別者ヲ救フノデアリマス」差別というものは被差別者を苦しめるだけでなく、差別者をも苦しめるものだ。

だから、差別者が差別をやめるということは被差別者を救うだけでなく、同時に差別者自身をも救うことになるのだ。このように考えれば、部落差別問題には第三者の立場というものはなく全員の問題なのだ。

これが姫井の融和思想の核心だが、理想主義的に過ぎるだろうか。現代においても立派に通用するものではあるまいか。

戦争協力と戦後の姫井伊介

恐慌の解決策として日本は戦争へとのめり込んでいく。このとき姫井は戦争に賛成し、協力を惜しまなかった。戦争という非常時には、部落差別なんか言っちゃおれない事態となる、それが部落差別を解決する絶好のチャンスだと姫井には思えたのだ。

しかし、これは姫井の誤りであった。戦争は決して差別を解決しなかった。大きな犠牲を出しての敗戦。姫井は反省し、再出発する。一九四七年(昭和二二)、戦後初の国会議員選挙に無所属で立候補、参議院議員に当選。国会活動の際には緑風会に属した。社会福祉事業法の成立に深く関与した。

一九五〇年(昭和二五)、第二回の参議院選挙では日本社会党から立候補したが落選。失意の姫井は、その年の末におこなわれた小野田市長選挙に担ぎ出される。この選挙では姫井は日本社会党の支持を受けていたが、それのみではなく当時レッドパージによって地下に潜っていた日本共産党も姫井支持を指令していた。

小野田市長選挙に当選。日本で最も早い「革新市長」の誕生である。小野田市では、姫井市長の時代に労災病院の誘致がおこなわれ、また、その他社会福祉事業の基礎が据えられた。

姫井伊介は山口県における社会保障・福祉事業ならびに同和事業の生みの親・育ての親としての生涯を、一九六三年(昭和三八)に終えた。享年八十一歳であった。