第4話 河野諦円(後編) 軍隊内の差別に抗議

部落から議員を!

人格的向上をめざすには単に道徳的な修養を積むだけではだめであり、冷たい世間に対して自分たちの意見を毅然として述べる必要がある、と諦円は考えていた。
 そのためには何といっても選挙権を獲得し、自分たちの代表を議会に送らねばならない。当時、選挙権は直接国税を納めるものにしか与えられていなかった。要するに土地を持つ者や金持ちだけの選挙だった。
 そこで諦円は、部落の人びとに共有の土地を買うことをすすめ、選挙権を取得させた。こうしてうまれた有権者により村会議員を出すことができるようになり、政治的発言も可能になった。 共有田は和親田と名づけられ、田植えや収穫などの農作業は青年行道会員や婦人美成会員の手によって行われた。

 

軍隊内での差別にも抗議
 河野諦円は差別事象に対しても毅然たる姿勢を見せている。その最も有名なものが軍隊内差別に対する抗議である。
 一九〇一年(明治三四)、久米村付近で陸軍の機動演習が行われ、兵士の宿舎として周囲の村すべてが割り当てられたが、諦円の住む村だけが除かれた。これは差別だ、と諦円は村役場、大隊本部、連隊本部へと次々に訪れ強く抗議した。
 連隊本部へは部落の人びと全員の連判状をたずさえて行き、自分たちの意見が認められない場合には、さらに師団本部に出頭する覚悟を伝えた。この抗議をうけて連隊長は軍隊側の非を認め、翌日から諦円の住む村も兵士の宿舎となった。
 一九一四年(大正三)の夏、山口の第四二連隊に入営した青年が休暇で帰郷して、諦円に嘆いた。連隊には「身上明細簿」という秘密書類があり、自分たちには「特殊部落出身」と記入され、上等兵以上には進級できないという。おどろいた諦円は連隊長に面会し、その事実を確認した。
 この差別に対して諦円は、国民には納税と兵役という二大義務があり、それに応じて国民の権利を認められている。ところが、その権利を圧迫されているからには義務をはたすことはできない、今日から兵役と納税の二大義務を我々ははたさない、と宣告した。
 これに対して連隊長は諦円の住む村まで出張して謝罪し、秘密書類を取り消し、かつ上等兵以上進級できないという取扱いもしない、と約束した。

 
 一九二二年(大正一一)に全国水平社が創立され、差別者に対しては猛省をせまる運動がはじまる。これに対して諦円は、なぜか賛成の意思を表明せず、むしろそれに対抗する行動に出ている。即ち、一九二三年(大正一二)の防長親和会の設立である。

 

 諦円が水平運動にくみしなかった理由は、水平社の徹底的糾弾の方針についてゆけなかったからだ。このあたりに河野諦円の限界がみえている。しかし、そうした限界はあるにしても部落解放をめざして闘った人物であることは間違いなく、高く評価すべきであろう。