第3話 河野諦円(前編)  山口県の部落解放の先駆者

学校が部落の子を排除

都濃郡久米村(現在は周南市)の明教寺の僧・河野諦円は、山口県部落解放運動の草分けの一人である。

 一八七三年(明治六)以来、彼は部落児童のために家塾をひらき、一八七七年には小学校の分教場がつくられるとそこで教鞭をとった。
 この分教場でおしえた生徒の一人を徳山尋常中学校へ入学させようとしたが、学校側はさまざまな口実をもうけて、成績優秀にもかかわらずこれを拒絶。そこで諦円はあちこち頼みこんでやっと入学させた。

 ところが入学したのはよいのだが、その生徒は、同級生はもとより教員からも差別をうけ、ついに耐えかねて退学してしまう。このことが、河野諦円が部落解改善運動にのりだすようになったきっかけである。

 

生活を守る取り組みを

 諦円は、まず部落の人々の生活をまもり、かつ人格的にも向上して、世間からの差別に負けないようにすべきだと考えた。

 活動の基盤となる組織づくりとして、一八八六(明治一九)に仏教青年行道会、翌年には婦人美成会を創設した。

 日露戦争前夜の一九〇三年(明治三六)には戸主を集めて、進徳会を創立した。
 翌年二月に日露戦争がはじまると、日本国民は勤倹貯蓄を心がけなければならないとして、進徳会員は、日別一銭ずつの貯金をおこなうことを全員で約束しあった。

 この貯金は順序にすすみ、やがてそれをもとにして久米村信用購買組合という産業組合が結成される。

 産業組合とはいわゆる協同組合であり、社会的弱者が協力し合うというその本質を諦円は理解していた。

 河野諦円の実践のなかで最も高く評価しなければいけないのが、この協同組合の指導である。

 寺務やさまざまな用務を終えるのが深夜になっても、諦円はかならず組合の事務室に入り、収支を確かめねば寺に帰らなかった。
 当時、村には商店は一軒しかなく、人びとは組合から各戸に届けられる日用品に大助かりだったし、組合からの融資に助けられた人も多いという。

 また、諦円は自らブリキ板を切り、組合のみに通用する一文銭を発行してつり銭として渡し、その小額のつり銭は貯金させた。