第2話 赤松照憧(後編)  部落改善運動を展開

部落改善運動を展開

彼の居宅は会堂とよばれ、セツルメント活動の拠点となった。新聞・雑誌・図書をおき部落の人びとが閲覧できるようにし、青年団や処女会の集会や児童の学習の場としても使用された。

 
 赤松照幢は部落内を散歩するのが好きで、人びとと言葉をかわし、生活の相談にものった。お風呂も部落の人びとの家でもらい、また、食べ物や花をもらうことが多かった。 部落青年の入営・退営のお祝い、結婚式、新築祝いなどの祝宴にもよばれた。照幢の自宅には近所の子どもたちがいつも遊びにきた。

 

 部落解放の取り組みとしては、当時「部落改善」をめざそうという考え方が主流であった。そのため、住宅改善組合を結成し、県に対して交渉し、徳山練炭所への就職斡旋、運送業者組合の設立を指導している。また町会議員選挙に際しても、部落内から議員を選出することに力を入れている。

 
 これらの活動は、徳山に近い久米村の河野諦円の協力もえている。河野諦円については次回に取り上げるが、彼も早くから改善運動に取り組んだ山口県の部落解放運動のさきがけの一人である。

 

 

部落の人間として生涯を

 赤松照幢の活動は、しかし、長くは続かなかった。居住をはじめてから八ヶ月のちの、一九二一年(大正一〇)八月二四日、照幢は部落の児童たちをつれて虹ガ浜(光市)に海水浴に行った。

 

 娘の常子もそのころ帰宅していて、一緒について行った。ところが水浴中に照幢は心臓麻痺をおこして死んでしまうのである。

 

 部落の人びとと徳応寺の門徒の者が大勢あつまり、照幢の遺体を列車で徳山駅まで運んだが、列車からおりて道が寺へ行く道と、部落へ行く道の分岐点のところまできて、争いがおこった。

 

 門徒の者たちはご院主さんだから寺へと主張し、部落の人びとは今朝まで自分たちの仲間だったんだから「当然、部落へ」と主張して、両方とも譲ろうとしない。

 

 結局、常子の意見を聞こうということになった。常子は考えたすえ、次のように答えた。
「父は部落の人として生涯を終わりたかったのだと思います。ですから部落に連れて帰ってください。」
 わっと、部落の人たちの側から歓声があがったという。

 

 この話には後日談がある。照幢の死去を報じた『徳山新聞』の記事中に、部落について差別的表現があるとして、照幢の薫陶をうけた部落の人びとが強く抗議した。その対応がさらに差別的であったので徳山新聞社主はさらに抗議と非難をあびる。

 

 部落の人びとは徳山警察署長あてに差別撤廃のための懇願書を提出しているが、その末尾は「吾等の目的とすべき処は人権主張の為なれば、主義の徹底する迄は止めず捨てず進行すべく、一致団結以って懇願するものなり」と結ばれている。これぞ山口県における水平運動の先駆であろう。