海に沈んだ長生炭鉱 〜強制連行の跡をたどる宇部の炭田のフィールドワーク〜 長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会 長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会 山口武信代表 内岡貞雄副代表

11月6日の西中国同和教育交流会でおこなわれた「長生炭鉱」の講演・フィールドワークについての概要を報告します。

多くの朝鮮人が強制労働

太平洋戦争に突入した日本は、国策として石炭の増産を強く押し進めており、宇部は石炭産業で支えられ、多くの炭鉱があった。

石炭産業の一番きつい部分を担わされたのが朝鮮人抵夫であった。長生炭鉱は宇部で最も早くに強制連行による朝鮮人が連れてこられており、1258名(1939年~42年)が強制連行されていた。

当時、多くの炭鉱が漏水を繰り返していた。長生炭鉱も例外ではなく、沖ノ山炭鉱沖の坑道(たてこう)は海底から200m、それに比べ長生炭鉱は海底30mぐらい。常識的に考えたらありえず事故が起こる可能性が大きかった。

1942年に宇部市西岐波の浜辺にあった長生炭鉱で“水非常”(水没事故)が起き、183名もの人々が生きながら、坑道に封じ込められてしまった。犠牲者のうち137名は強制連行されてきた朝鮮人だった。

水没事故から40年目、1982年に地元有志や公民館によって「長生炭鉱受難者之碑」が建立された。だが、碑文には183名の犠牲者の名前や、そのうち137名という多くが朝鮮人であったことの歴史的経緯も何も書かれていない。

碑には「昭和一七年二月三日の朝、沖のピーヤの水はピタリと止まった四〇年を迎えた現在でも一八三名の炭鉱の男達は海底に眠っている永遠に眠れ安らかに眠れ炭鉱の男たちよ」と書かれている。

戦争の謝罪と反省を踏まえた慰霊を

この詩は建立委員事務局長によるもの。彼は事故当時、日本は戦時下にあり日本人も朝鮮人も銃をつるはしに変えて石炭を掘った「産業戦士」であり、ともに帝国臣民であったことをこの詩で謳っている。

この碑に183名の犠牲者の名前がないのも、朝鮮人に対する加害者としての反省がないのも、当時の皇国史観を今持って是としているからにほかならない。

山口武信代表ら「刻む会」は、この慰霊碑が地域住民に一定の役割を果たしてきたことは認めつつ、一方で「日本人としてお詫びの言葉を入れた碑を作るべきではないか。陰に多くの犠牲あったことを知って欲しい」と、新たに慰霊碑を作る運動を進めてきた。

「刻む会」は92年から毎年、炭鉱の遺構として残る海上に突き出たピーヤ(排気筒)の見える海岸で追悼式を開いてきた。93年からは韓国人遺族も招いている。

遺族は名前を刻んだ追悼碑の建立と遺骨の回収を求めている。刻む会はピーヤの見える土地を探し、昨年4月、有志で700万円を出し合って約300平方㍍を購入した。

碑の費用は今後の募金でまかなう。目標は2千万円。韓国人遺族の中には、日本人犠牲者と同じ追悼碑に名前を刻むことに、「日本人は謝罪していないし、日本人は韓国にどういうことをしてきたのか知らない」と抵抗を示す人もいた。

遺族の方の思いを、一つ一つ大事にしながら進んでいくことが大事だと改めて痛感させられた。

刻む会でも意見が割れ、建立委員会の設置までに時間がかかったが、現在、全員の名前を書くこと、左の碑に朝鮮人、右の碑に日本人を建立することで作業を進めている。

内岡副代表は、「強制連行」という名前を入れた碑文は、今までなく「今年は韓国併合100年の節目の年。戦争の謝罪と反省をきちんとして、真の平和と友好につなげたい」と語っている。