あした元気になあれ【反差別人権研究所みえ 松村智広】

【2009年1月 解放新聞 第33号より】

「今日は、私のプライバシーと引き替えに、みなさんの理解が欲しい。」と語りはじめた松村智広さん。旗開きの記念講演では、自身の生い立ちと被差別体験を明るく、ユーモアたっぷりに語って頂きました。以下、講演の一部を紹介します。(文責・編集部)

部落差別のワナ

私は三重県の被差別部落に生まれた。6才で母を亡くし、父親と祖母に育てられた。だから年に一度やってくる「母の日」は大嫌いだった。みんなは赤いカーネーションなのに、私だけが胸に白いカーネーションを付けられたからだ。参観日もイヤだった。来ている人のほとんど全員が母親で、私は祖母だったから。祖母の気持ちも分からず「帰れ」と学校の玄関で追い返したこともあった。母と死別して33年目、父は60才の誕生日を待つようにして母のもとへ旅だった。生活がきつい、仕事がきつい、差別がきつい、きついづくしの毎日の中で、父は寂しさをまぎらわすかのように、時には、自分自身を痛めつけるかのように酒を飲んでいた。そんな父が肝臓を壊して入院したとき、病院では自分の住んでいるところを隠し、読めないはずの新聞をとっていた。「病気も貧乏も我慢できる。でもな、差別は我慢できんのや。」と、最後まで、父は堂々とふるさとを名乗ることはなかった。人は「胸を張れ」とよく言うけれど、胸を張れなくさせているものがある。差別により貧乏で学校に行けず、教育を奪われた父親のことを、何も分からずに責め続けた自分。部落に生まれた自分が差別が一番見えるはずなのに、その自分が、部落差別の罠にはまり、親を憎んで、ふるさとを恨んで、自分自身をも否定して生きてきた。差別をされてきた悔しさよりも、差別を許してきたことの方がもっと悔しかった。

ばあちゃんこそ本物の教育者

徳島の中学校で識字学級に通う祖母の話をしたら、勉強が苦手なゆかちゃんから手紙がきた。差別によって奪われた文字を奪い返している祖母の姿に、勉強から逃げずに自分の夢である保育士になるために頑張っているという内容の手紙だった。震える手で鉛筆を握り、手あかと涙でつづられた手紙の文通が始まり、ゆかちゃんはそろばんの全国大会で2位に、ついには高校を合格した。その手紙を見た祖母は「よかった。よかった」と、涙を流し心から喜んでいた。文字を持たないばあちゃんが、ゆかちゃんに「元気」と「やる気」を与えた。ばあちゃんのほうこそ本物の教育者や。

差別する人こそ恥ずかしい

今でも厳しい結婚差別の現実はある。結婚を反対され断念するときに2つの理由があげられることが多い。「私は良くても世間が反対するから」「私はいいけど、生まれてくる子どもがかわいそうだから」の二つだ。ともに「私はいいけど」がついている。「私が」よかったら、それでいいじゃないか。本当は「私が」イヤなんだろう。世間に責任をなすりつけるのはずるい、ひきょうだ。世間って誰?封筒に切手を貼って世間に手紙を出したら、自分に返ってくる。つまり、世間は自分だ。自分が変わらなければ、世間は変わらない。「生まれてくる子どもがかわいそう」。生まれてもいない命に対して、はじめから「かわいそう」と決めつけるのは、命に対する侮辱である。部落の子どもが「かわいそう」なのでなく、差別をする子どもが「かわいそう」なのである。人を差別してしか生きられないのなら、その生き方こそ、かわいそうだ。一日も早く本当の意味での人間にもどしてやるべきだ。部落に生まれたことが悪いわけではない。差別をする人が悪いし、恥ずかしいのだ。人権問題を考えるというのは、人のためにするものじゃない。自分のためにするもの。これが本気になったとき、人のためになる。部落解放は人間解放。目に見えない鎖から自らを解き放す、当たり前を当たり前に戻す作業。部落差別って、闘わないと見えてこない。闘わないとなくせない。