共に差別をなくす取り組みを【地元報告者 仮屋龍一】

部落解放同盟宮崎県連合会 仮屋龍一 【2008年10月 解放新聞 第30号より】

全研の初日全体会で、部落解放同盟宮崎県連の仮谷龍一さんが「共に差別をなくす取組を」と題した地元報告をおこなった。講演では、厳しい部落差別の現実のなか支部が結成され、解放運動に出会うなかで「ふるさと」を誇りに思えるようになり、親やムラの人たちへの思いが語れた。ここでは、仮屋さんの地元報告の一部を紹介する。(文責・編集者)

ムラが立ち上がる時

私は延岡市の部落に生まれ育った。私のムラには、と場、野犬処理場、火葬場があり、周辺地域からは強烈な差別を受ける日々だった。1976年に支部を結成するときは、ムラのばあちゃん、じいちゃんたちが一番反対した。その背景には、過去にこれまでいくら差別を訴えても誰も聞いてくれなかった歴史があったからだ。支部が結成されるまでは、宮崎県行政は「みどりと太陽の国、宮崎には差別はない」と、行政はまったく対応しない過去があったからだ。その反対を若者がおしきる形で支部を結成した。支部が結成され、一番最初の要求は火葬場を移転し、その空き地を子どもたちの遊び場にすることだった。ムラには、野犬処理場や火葬場など人が嫌がる施設が多かった。そのために強烈な偏見により、部落が差別され、忌避され続けた。だから今度は「人が来たがる」施設を求めた。しかし、火葬場を移転し、その跡地に立派なグランドができても地区外の人は誰も利用しなかった。子どもたち「あのグランドでケガをしたら伝染病になる」などと言っていた。そんな状況を打破するために10年前から「グランド利用者の会」を作り、地区外の人も利用するようになってきた。「みんなが使ってくれるグランドが欲しい」という願いがやっと叶い始めた。

二つの「ふるさと」

大分の大学に進学した。大学には九州各地から、いろんな友だちが来ていた。酒を飲みながら、自分たちの故郷のことや、生い立ちを語りあう中で、自分はムラのことを話せば、この場におれなくなると「ケモノのような鋭さで」故郷を隠した。大学に進学し初めて部落を離れ、自分にとっての「楽しい懐かしいふるさと」と「ケモノのような鋭さで隠すふるさと」の二つのふるさとになってしまった。大学卒業後、会計事務所に入社したが、父の借金のことで退職させられた。仕事もやめて、ブラブラしているときに、解放運動に誘われた。そして、いろんな集会に参加し、そこで多くのきょうだいと出会った。そこで出会う人たちは「差別はおかしい」と怒りを持ち闘っていた人たちだった。でも、自分にはそんな熱いものはなく、ただ差別を受け入れていた自分だった。しかし、解放運動に関わるなかで、そんな「差別を受け入れていた」自分が少しずつ変わってきた。それまでは、と場や火葬場があるから差別をされていると思っていた。でも、ムラの人は、と場で牛や豚などを決して「殺す」とは言わなかった。「わる」とか「おとす」とか。肉だけでなく「牛の鳴き声以外は一切に無駄にしない」と言われてきた。骨は骨粉肥料として使っていた。皮はグローブや革製品に使っていた。毎年ある「畜魂祭」では、食肉産業に関わる人が、1年間の命に感謝し、手を合わせ頭を下げている姿があった。正しく部落問題を知るなかでそんな、ムラのと場や火葬場のことを「嫌っていた」自分が情けなく思いはじめた。

私の十月十日

母はムラで生まれて、看護士になった。宮崎県内のある町で看護士として働いていた。父と交際が始まるなかで、母のお腹の中に命が宿り、二人は一緒になろうと誓った。でも、父親は猛反対した。それでも、何度も通ってくる父をムラの人が励ました。「私のトツキトウカは、まさに差別との闘いだった」もし、父と母が、厳しい結婚差別と反対のなかで、さじを投げていたら、自分はこの世に生まれてくることはなかった。差別は人の命を奪う。でも、差別をなくすことは、命を守り、命を育てていくこと。差別との闘いを、それぞれの生き様と重ねながら、差別のない社会、差別のない人に向かってみんなで近づいていきたい。