全国水平社の源流を歩く【聞き取り 西光寺住職 清原隆宣】

奈良の県外視察研修(1面)では、西光寺の清原隆宣さんからの聞き取りをおこないました。清原さんは水平社創立の背景や水平社宣言に込められた思いなどを語ってくれました。その時の話の一部を紹介します。【2008年4月 解放新聞 第24号より】

世間の間違った“ものさし”を変える

水平社宣言を起草した西光万吉(本名・清原一隆)は、私の祖父の兄。西光万吉は運動で走り回っていたから、弟である私の祖父が住職になり西光寺を継いだ。水平社というのは、差別は人間の間違った「ものさし」からおこる。この間違った「ものさし」を変えようという運動だ。解放令が出ても厳しい差別は続いていた。役場や学校も公然と差別していた時代だ。明治に入り小学校が出来たが議会でも議論になり、部落の子どもたちだけ山にあるボロ小屋の別学校をつくって「お前たちはそこに行け」と差別した。目の前に小学校があるのに「お前らは来るな」と。そのことに部落の人たちは怒り、11ヶ月の同盟休校を実施し、ようやく1892年、学校が統合された。水平社創立の30年前だ。こういう闘いがベースにあり、水平社創立にいたった。

「エタであることを誇りうるとは」

自分たちは差別のなかを生きてきたからこそ、差別の痛みが人よりよくわかる。だからこそ、自分たちがその思いを持って、立ち上がり運動をすすめていかなければいけない。住井すゑさんが『橋のない川』を書くきっかけになったエピソードがある。『つづり方兄妹』(久松静児・58年)という映画がある。映画は戦後の引揚げ一家の物語で、貧しい生活の中で作文の上手な三兄妹が健気に生きていたが、新聞配達をしていた文雄という八歳になる弟が肺炎になって死んでしまう。この映画をある小学校でみているとき、ふと気づいたことがあった。それは部落の子どもと他の子どもとでは、泣く場面がまるで違っていたということだった。部落の子どもたちは文雄が高熱を出して苦しんでいるシーンでワーンと泣き出したのだが、他の地域の子どもたちは文雄が息をひきとったところで泣き出したのである。泣くシーンがどうしてこうも違うのか、とても気になって合点がいかなかった。そこでその晩に部落の子どもたちにその理由を尋ねてみた。「先生、人間はみないっぺんは死ぬんや」「だから死ぬのは怖くもないし、悲しくもない」「でも悲しいのは、あの子みたいに、貧乏で病院にもいけず、手遅れになって死んでいってしまったからや。あの子を殺したのは貧乏なんや、差別なんや!」「死んでから泣いたっても間に合うもんか。死んでから悲しいっていうんやったら、なんでその貧乏の差別に殺されていく命に、怒ったり、わめいたりしてくれないんだ!」と子どもの声が響き渡った。住井さんは涙がとまらなかった。このこどもたちの人間の輝き、人間の思いをつづりたいと思い『橋のない川』を書いた。

「人間を尊敬する」世間を部落なみにする

水平社運動は、部落がダメだからがんばって世間なみになることを求めたのではない。差別は間違った世間のものさしによってつくられている。その世間のものさしを変えていこう。そのときに、私たち部落の中にあった「人間を尊敬する」というものさしを間違った世間に広めていって、世間を部落並みにしようとした。そうすれば、世間が人を人として大事にしようという世の中になる。だから水平社宣言は「部落民に熱と光を」ではなく「人の世に熱あれ、人間に光あれ」といったのだ。