戦前・部落青年の苦悩~松木淳・桂哲雄から学ぶ~

2月21日に開催された山口県東部地区部落問題研究会第17回講座全体会において、布引敏雄・大阪観光大学教授から「戦前・部落青年の苦悩ー松木淳・桂哲雄」と題して講演がおこなわれた。以下、講演の概要を報告する。【2008年3月 解放新聞 第23号より】

松木淳の人生

松木淳は、1904年(明治37年)山口県の山間部の小さな被差別部落に生まれる。差別と貧困のために小学校も3年生までしか行けず、14歳のときより仕事を求めて、臨時雇いをしながら職を転々としさすらいの旅を続ける。
1922年、全国水平社が創立され翌年、山口県水平社もできる。松木淳の故郷の村にも水平社が創立されると20歳の松木淳は帰村して水平運動に没頭する。しかし、厳しい警察の弾圧により地元の水平社は潰され松木は「要思想観察人」に指定され、背後に警察の目を感じながらの生活に入る。1930年(昭和5年)、松木は小野田町の姫井製陶所で臨時雇いとして働く。実はそこは姫井伊介の製陶所だった。姫井伊介とは、戦前、山口県議会で初めて部落問題解決を訴えて発言した人物である。彼は部落問題解決のために「労道社」という組織を作り、山口県におけるセツルメント事業(隣保事業)を実施していく第一人者である。その後、松木は結核が発病し、結核療養所に入る。治療が終わった段階で、姫井伊介から頼まれて大島郡の久賀町の部落に入り運動を展開する。

部落青年たちが島光社を結成

彼が真っ先にやったのが、部落の青年たちを集めて「トラホーム」の治療をやろうとオルグをしていく。不衛生な状態でおこる病気で、目がただれてきて、目やにがひどくなり、ひどくなると失明する。別名「部落病」と言われるくらい、当時は部落に多かった病気だった。戦前・昭和初期の部落はとにかく貧しかった。上下水道が完備されているところが少なかった。不衛生であるということで、世間の人は部落を差別する。差別するからまた貧乏になり、不衛生になる。
それに付随する病気として「トラホーム」がつきものだった。言い換えればトラホームの生まれる実態を解決することは、当時として部落問題解決の最前線の活動だった。当初は反対する青年もいたが、最終的にはみんなが賛成して青年たちが取り組むようになる。それを組織としてしっかりやっていこうと「島光社」を結成。部落の青年が中心となり、トラホーム治療、保育事業、青年教養、職業斡旋、生活改善指導など当時としては充実した事業展開だった。当時(1937年頃)は、山口県水平社も活動休止状態だった。そのような中で、松木淳たちが「島光社」を立ち上げ、部落青年たちを組織化することに成功したことの意味は大きかった。その後、彼は人間関係のもつれなどあり、結婚して山口を去る。

桂哲雄の生き様

松木淳の後を受けて活動したのが、大島の住職だった桂哲雄だった。小い頃から社会主義の思想を持ち、松木淳の活動に共感して、協力していった。桂は「島光社」があっても、みんなが集まる場所がない。とにかく、集まる場所を作ろうと、隣保館をつくることに取り組む。久賀の大金持ちの家に行き頼み込み、桂哲雄の自費とその金持ちの人が出したお金で隣保館を作った。トラホーム(目の治療)は松木淳が一生懸命に取り組んでいた。しかし、一番の問題は部落の人の仕事だった。日本では差別が厳しい、最終的に彼が選んだのは満州移民だった。

満州開拓での試み

単に満州に部落の人を連れて行って仕事保障するのではなく、部落の人を50%、部落外50%を連れて行く、そこで寝食を共にし開拓をしてくなかで偏見を解消していこうと試みた。これが「山口村開拓団」だった。しかし、結果はダメだった。満州の地でも部落差別は解消されなかった。その後、もう一度、開拓団を結成し、今度は部落の人たちだけを引き連れていく。松木さんから始まった島光社の動きが、桂さんに受け継がれていった。このような動きは戦前・戦後の部落青年の動きを見ても例を見ない。このような松木・桂さんたちの動きを見習い、山口の部落青年たちも立ち上がって欲しい。