同和教育との出会いのなかで【講演者 上原仁朗】

全国同和教育研究協議会 副委員長 熊本県人権教育研究協議会 会長 上原仁朗【2007年8月 解放新聞 第16号より】

山口県同教大会で記念講演をした上原さん。彼は高校の同推教員になり、一人の子ども、親との出会う。同和教育に取り組み多くのことを学ぶなかで、子どもたちの「くらし」に根ざす実践と、今後の同和教育の課題を講演では提起した。以下、講演の概要を報告する。

同和教育との出会い

私は76年に熊本県北の高校に新任教員として赴任し4年目、同推教員になった。そこで1人の部落出身の生徒、親との出会いを通して家庭訪問の大切さ、同和教育の必要性を痛感し取り組むようになった。当時高校2年生だった彼女の母は、小学生の頃離婚し、大好きだった妹と家を出ていった。父は仕事がなく生活は荒れていった。友達からは母子家庭、給食費が払えないということでいじめられ、彼女は友達も信用できなくなっていった。そして最後には、自分がこんなに厳しい状況になったのは「あの親父のせいだ」と父を憎み、何度も家出をしたり、父と大喧嘩の毎日を送っていた。
そんな彼女の家に通い半年経ったある日、父が自分の生い立ちと部落差別への思いを語ってくれた。勉強ができた自分は、新しくできた高校へ進学したが、そこでクラスメートから部落出身とあばかれ、高校を辞めた。その後、いろんな苦労をしながら生きてきた。そういう話をしてくれていた。ふと気づくと、彼女が、柱にもたれて、ぽろぽろと涙を流し、その話を聞いてた。そして、彼女がそっとやってきて、お父さんにお茶をいれ、ポケットに入れていたチョコレートをすっと差し出した。 そんな父の話を聞くようになり、彼女は、父はどんな人生を生きてきたのだろう、父はどんな思いで自分を育ててくれたのだろうと「父への見直し」をするようになってきた。そうやって「親のくらしをどれだけ子どもに伝えられるか」という取り組みの中で、彼女が変わっていった

授業をどうつくるのか

彼女が高校生の集いで発言した言葉。「私にとって部落解放とは、父親が卒業できなかった高校を卒業すること。父親が手にいれることができなかった、安定した仕事を手に入れること。それが私にとっての部落解放だ」「しかし、そういったときに、私の目の前に現れてきたのは、今まで勉強をしなかった自分の弱さ。仲間の友達を信頼できずに、学校に行けなかった自分の弱さ。そういたことが私の前に壁として現れてきた」彼女のくらしの事実を見つめてこそ、自分たち教師が、どんな授業をつくってくのか問われていた。

なかま集団をどうつくるのか

彼女が高校3年生の生徒会選挙のとき「自分のことをみんなに伝えたい」と、自分生い立ち、部落出身であることを語った。それを聞いて、励まされた子どもたちがいた。そのひとり、まこと君が、その後、学校に来ていない彼女を心配して、自分が励ましにいくと言い出した。彼は「自分は汚い人間」だと思いこまされ、学校へ2年も来れなかった子である。彼女の家に行き、まことくんが「自分は何度も自殺しようと思ったり、しんどどかったときに、何度も自分を励ました歌がある」と、その歌をうたい、彼女をを励ました。それを聞いた彼女が「私は自分のために話したことが、誰かを励ましていた」「その励ました人が、今度は私を励ましにきてくれた」「この人の思いにこたえるためにも、自分は学校へ行かないといけない」といい、再び、学校へ通いはじめた。なかま集団をつくるというのは、このように「くらしに根ざす思いを重ねて、集団をつくっていくこと」であると痛感させられた。彼女は最終的には、企業に就職し、結婚し、現在は、地元の児童館で子どもたちの指導員をしている。

進路をどう保障するのか

76年、熊本県の大手企業の身元調査差別事件があった。その公開行政指導で、企業が自分たちの差別を認め、不合格にした生徒10人すべてを合格にした。しかし、10人のうち誰一人その企業に入った子はいなかった。ある子は、2年間家にひきこもったり、ある子は「私はこんな熊本、ふるさとを憎く思います」とテープに残して家を出て行った。この事件を通して当時の先輩たちは、高い学力され与えればいいということでなく「ふるさとを恨む、憎む教育とは何なのか」「ふるさとを誇れる人間を育てなければ、本当の意味の同和教育ではない」ということを基調して、統一応募用紙や戸籍閲覧制限運動に取り組んできた。熊本の高同研20周年の集会のときに部落の青年が「先生たちの同和教育は会議室の中の、同和教育になっていないか。俺の同和教育は働いて、嫁さんにめしをくわせることだ。そんな俺たちの生活をみるために部落に来てくれ。そんな俺たちの生活を見て、先生たち同和教育をやってくれ」と言った。最後に、彼の願いと思いをしっかりとみなさんで受けとめて取り組んでいこう。